森繁久彌 ――遺贈と寄贈、二つの選択とその違い

有名人の遺言書シリーズ — 遺す人、遺さない人、税理士が読み解く10の物語

遺言書は「いつか」ではなく「いま」考えるもの。
“その時”が来てからでは、もう本人の意志を確かめることはできません。

けれど、いざ書こうとすると、制度や形式の壁が高く感じられるものです。
そんなときは、有名人たちの遺言をのぞいてみましょう。
そこには、家族への想い、人生のけじめ、そして制度を通して想いを託す知恵が見えてきます。

「遺言書を書くのはやめよう」――

俳優・森繁久彌さんは、生前にそう心に誓ったと伝えられています。
銀座で飲んでいた役者仲間が、遺言を書き終えて「あとは死ぬだけになってしまった」と漏らした言葉を聞いたからだと言います。

けれど、遺言を書かなかった選択が、残された家族にどのような重荷を負わせるのか。

森繁さんが遺したものは、金銭ではありませんでした。
映画賞のトロフィー、ヨット、無人島――経済的な価値があっても、換金も処分も難しい財産ばかりでした。

次男は、それらをすべて相続し、一つひとつ適切な場所に寄贈していきました。
その選択は、個人の手元に留めず、社会に委ねるという判断でしたが、税務上も実務上も、大きな負担を伴う道でした。

もし遺言があったら、どうだったのでしょうか。

「遺贈」と「寄贈」――似ているようで、法律上も税務上も、まったく異なる二つの道があります。

🗂 プロフィールメモ:森繁久彌(もりしげ・ひさや)

1913年大阪府生まれ。俳優として『駅前シリーズ』『社長シリーズ』など数多くの名作に出演。

舞台、映画、テレビで活躍し、「国民的俳優」として親しまれた。

趣味のヨットや無人島の所有でも知られ、多彩な人生を送った。

遺言書は作成せず、2009年に96歳で死去。

遺産には映画賞のトロフィーや賞品、ヨット、無人島、ゴルフ場会員権などが含まれ、
次男が相続した後、適切な機関に寄贈・処分した。

本稿は、公開された報道内容を素材として、「仮に報じられている状況が成り立つとしたら、法律上どのような仕組みが動くのか」を解説するものです。個別事情やご家族の意図を推測・断定する目的ではありません。

目次

森繁久彌と「遺言を書かない」という決断

マネーポストWEB(女性セブン)の取材に対し、次男の森繁建さんが語ったところによれば、
森繁さんが遺言を書かなかった背景には、ある出来事があったと言います。

役者仲間と銀座で飲んでいたとき、その相手が浮かない顔をしていたため理由を尋ねたところ、

「身辺整理と葬式の段取りをして、遺言書を書いた。でも全部終わったら、あとは死ぬだけになってしまった」

という答えが返ってきたそうです。

森繁さんはそれを聞いて、遺言書を書くのはやめようと心に誓ったと伝えられています。

遺言を書くことは、死を覚悟することなのか。
身辺整理を終えたら、本当に「あとは死ぬだけ」になってしまうのか。

この問いは、今も多くの人が抱える遺言への心理的な抵抗の核心にあるものです。

けれど、法律の視点から見れば、この捉え方は誤解に基づいています。

遺言は、遺言者が生きており、内容を理解して判断できる状態であれば、
何度でも書き直したり、撤回したりすることができます。

遺言を書いたからといって、人生が止まるわけではありません。
むしろ、判断力がしっかりしているうちに、自分の意思を整理しておくことが、
残される人にとっての道しるべになります。

遺言を書くと、あとは死ぬのを待つだけになってしまう気がして・・・。

お気持ちは分かりますが、それは誤解です。
遺言は何度でも書き直せますし、撤回もできます。
むしろ、判断力がしっかりしているうちに書いておくことが大切なんですよ。

残された財産と「寄贈」という選択

森繁さんが遺したものは、現預金だけではありませんでした。換金や処分が難しく、相続人がその「出口」を決めなければならない財産が中心だったのです。

報道によれば、次男の建さんは財産ごとに異なる対応を迫られました。ヨットは値を下げて売却し、無人島は維持し、ゴルフ場会員権などは知人に引き継がれました。

一方で、映画賞のトロフィーや賞品の数々については、散逸を防ぐため博物館などへの「寄贈」という出口が選ばれました。

寄贈とは、相続人が財産を相続した後に、無償で他者に譲ることを指します。
つまり、一度相続人の手に渡った財産を、その相続人の判断で公益的な機関などに贈る行為です。
これは、被相続人本人が遺言で定める「遺贈」とは、法律上も税務上も明確に異なります。

しかし、この「寄贈」という選択は、税務上も実務上も相続人に大きな負担を強いる道でもありました。なぜなら、相続人が相続した後に自分の判断で行う「寄贈」は、本人が遺言で定める「遺贈」とは、法律上の扱いが全く異なるからです。

遺贈と寄贈の違い

「遺贈」と「寄贈」。

似た響きですが、法律の世界では全く異なる概念です。
誰が決めるのか、いつ決まるのか、税金はどうなるのか――
これらの違いを整理すると、次のようになります。

法的な違い

項目遺贈寄贈
誰が決める被相続人(遺言で)相続人(相続後に)
いつ決まる生前相続後
所有権の移転被相続人→受贈者(直接)被相続人→相続人→受贈者(二段階)

税務上の違い

項目遺贈(公益法人等)寄贈(公益法人等)
相続税相続税法12条で非課税通常通り課税(一旦相続人が取得)
譲渡所得税なし(相続人を経由しない)措置法40条で非課税の可能性あり

つまり、同じ博物館に同じトロフィーを渡すとしても、遺言で「遺贈する」と書いておけば、相続税は非課税になります。

一方、相続人が相続した後に「寄贈する」場合、原則として一度相続人に相続税がかかり、その上で譲渡所得税が発生する可能性もあります。

ただし、相続税の申告期限(原則10か月)までに、国や地方公共団体、一定の公益法人等に贈与し、
相続税法第12条第1項第3号の要件を満たす場合には、その寄贈した部分は相続税の課税対象から外れます。

もっとも、この場合でも、期限管理や受け入れ先との調整、必要書類の準備などは相続人が担うことになり、
遺言による遺贈に比べて実務上の負担は重くなります。

寄贈も遺贈も、結局は博物館に渡るなら同じじゃないんですか?

結果として渡る先が同じでも、税務上の扱いは大きく異なります。

寄贈の場合、原則として一度相続人が相続税を負担した上で渡すことになります。
申告期限内に寄贈すれば相続税が非課税になる特例もありますが、その判断や手続きは相続人が担わなければなりません。
遺贈であれば、最初から被相続人の意思で直接渡り、相続税も非課税となるため、手続きははるかにシンプルです。

その意味で、公益法人等への寄付を考えている人にとって、遺言書は有効な手段の一つになります。

動産の相続税評価

トロフィーや賞品――これらは、相続税の世界では「動産」として評価され、課税対象になります。
動産の評価は、財産評価基本通達135に基づいて行われます。

具体的には、次のような方法で金銭的価値が算定されます。

  • 売買実例価額
  • 精通者意見価格
  • その他合理的な方法

思い出の価値は、税務上の評価額とは無関係です。

処分も難しく、換金もできない。それでも、評価額がつけば課税対象になります。
相続税は、「実際に売れるかどうか」ではなく、「経済的価値があるかどうか」で評価されます。
そのため、処分や換金が現実的でなくても、価値があると判断されれば課税対象になります。
これが、動産相続の難しさです。

森繁さんのトロフィーや賞品も、おそらく同じように評価され、次男が相続税を負担したものと考えられます。
その税金を払った上で、博物館に寄贈したのです。

トロフィーや賞品にも相続税がかかるんですか?

はい。処分も難しく、換金もできない。
それでも経済的価値があると判断されれば、課税対象になってしまうんですね。

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もし遺言で遺贈していたら

もし、森繁さんが遺言を残していたら、どうだったでしょうか。

「○○博物館にトロフィー一式を遺贈する」

そう書いておけば、財産は相続人を経由せず、直接博物館に渡ります。
そして、相続税法12条により、その財産には相続税がかかりません。

これが、公益遺贈という仕組みです。

公益遺贈の制度(相続税法12条)

公益遺贈とは、国、地方公共団体、特定の公益法人等に対して、遺言によって財産を遺贈することを指します。

要件は次の通りです。

  • 国、地方公共団体、特定の公益法人等への遺贈であること
  • 公益目的に使われること

これらの要件を満たす公益遺贈については、相続税は非課税となります。

手続きとしては、次のような流れが想定されます。

  • 遺言で明示する
  • 遺言執行者の指定が望ましい
  • 受贈者(博物館等)の受け入れ態勢を確認しておく

森繁さんのトロフィーや賞品は、遺言で博物館に遺贈することもできたはずです。
そうすれば、次男の相続税負担は軽減され、手続きもよりスムーズだったかもしれません。

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寄贈ルートの実務的ハードル ― 措置法40条の壁

相続人が相続した後に公益法人等に財産を寄附した場合、
所得税法59条により「みなし譲渡課税」が問題となることがあります。

これは、無償で財産を譲渡した場合でも、取得時より値上がりしている財産については
時価で譲渡したものとみなして譲渡所得税が課される仕組みです。

購入時より価値が下がっている財産や、
譲渡益が生じない財産については、そもそも譲渡所得税は発生しません。

この課税を非課税とする制度があります。それが、租税特別措置法40条です。

措置法40条の要件

公益法人等への寄附について、次の要件を満たせば譲渡所得税が非課税になります。

  • 公益法人等への贈与・遺贈であること
  • 教育・科学の振興等、公益の増進に著しく寄与すること
  • 寄附をした者の所得税の負担を不当に減少させる結果とならないこと

しかし、この非課税を受けるには、国税庁長官の承認が必要です。

実務上のハードル

承認を得るための手続きは、容易ではありません。

  • 承認申請から結果が出るまで通常数か月〜1年以上
  • 申請書類の準備が煩雑(寄附財産の明細、公益法人の事業計画等)
  • 承認後も「承認の取消し」リスクがある(寄附財産を公益目的以外に使用した場合等)

つまり、寄贈ルートを選んだ場合でも、
値上がり益のある財産については、次のような二重の検討が必要になります。

相続税:一旦相続人が取得するため、通常通り課税される

みなし譲渡課税:値上がり益がある場合、措置法40条の承認を得なければ所得税が課される

取得価額が不明な古い動産・骨董品などは、この「措置法40条の壁」が特に高くなりやすい財産です。

これに対し、遺言で最初から公益法人に遺贈しておけば、相続税は相続税法12条により非課税、譲渡所得税も発生しません。
相続人を経由しないため、そもそもみなし譲渡の問題が起きないのです。

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相続した後に博物館に寄贈すれば、税金は戻ってくるんですか?

残念ながら、相続税は戻りません。さらに、寄贈する際にみなし譲渡課税がかかる可能性もあります。

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📌実務上の重要な注意点:

公益遺贈を実現するには、受け入れ先の公益法人等と事前に調整しておくことが不可欠です。

博物館や文化施設によっては、寄贈品の受け入れ基準が厳格で、
保管スペースの問題や展示計画との整合性などから、受け入れを断られることもあります。

遺言で「○○博物館に遺贈する」と書いても、受け入れ先が拒否すれば、遺言の効力は実現できません。

そのため、生前に受け入れ先と話し合い、了承を得ておくことが現実的です。

また、遺言執行者を指定しておくことで、死後の手続きがよりスムーズになります。

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「遺さない」という選択が映し出すもの

森繁さんの死後、処分や扱いに迷う財産は、次男の手によって一つひとつ対応されていきました。
寄贈されたものもありましたが、その判断と手続きの負担は、すべて次男が引き受けることになりました。

相続税を負担し、財産ごとに行き先を検討し、受け入れ先と調整しながら手続きを進める。
その過程には、時間も労力も、そして税金も伴います。

遺言があれば、こうした判断の一部は、本人の意思として整理できたかもしれません。
けれど、日本では遺言によって財産の行き先を決めること自体が、まだ一般的とは言えません。

その背景には、
「遺言を書くこと=死を意識すること」という心理的な抵抗と、制度があっても十分に知られていないという現実があります。

さらに、遺言で遺贈しようとしても、受け入れ先となる博物館や施設が、事前の調整なしに引き受けられるとは限らないという現実もあります。

結果として、行き先を決めきれない財産の判断と負担が、相続人に集中する構造が生まれています。

森繁さんのケースは、
個人の判断の是非を問うものではありません。
「決めないまま残すと、誰が何を引き受けることになるのか」
その現実を、静かに示しているのです。

遺言は、死を覚悟して書くものではありません。
判断を死後に先送りしないための道具です。

そして、換金や処分、寄付が容易ではない財産ほど、遺言の前に、生前の整理が欠かせません。

自分の意思で決められるうちに、何を残し、何を整理し、どこまでを次の世代に委ねるのか。

それを考えておくことが、残される人の負担を減らす、もっとも現実的な選択です。

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まとめ

森繁久彌さんのケースが教えてくれるのは、「遺言がなかったこと」そのものではありません。

処分や換金、寄付が簡単ではない財産について、生前に行き先や扱い方が整理されていなかったことで、
その判断と負担が、すべて相続人に委ねられたという現実です。

遺言は、その負担を軽くする有効な手段です。けれど、遺言だけで解決できるわけではありません。
どの財産を残すのか。どこに引き受けてもらえるのか。そもそも、残すべきものなのか。
こうした整理は、遺言だけで済む話ではありません。
物のボリュームを減らしたり、受け入れ先の承諾を得たりといった、遺言書という「書類」の外側にある様々な対策が不可欠だからです。

「残す」ことが、誰かの負担にならないために。
自分の意思で決められるうちに、一度立ち止まって考えてみませんか。

森繁久彌さんのように、トロフィーや賞品、コレクションなど、扱いに迷う財産を多くお持ちの方へ。

これらは、簡単に分けたり、売却したりできるものではありません。
行き先を決めないまま残せば、その判断と手続きは、すべて相続人に委ねられることになります。

遺言で行き先を明示しておくことで、相続税や手続きの負担を整理し、残される人の判断を減らすことができます。

弊所では、公正証書遺言の作成支援に加え、公益遺贈に関する税務の整理や、動産評価に関する助言など、
換金や処分が容易ではない財産の承継を専門的にサポートしています。

どうぞご相談ください。 落ち着いた対話の中で、あなたらしい意思を形にしていくお手伝いをいたします。

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🔎 注意:出典について

本記事は、公開資料・報道・研究文献など一次確認が可能な範囲に基づき作成しています。

家族関係については、百科事典的資料の記述に依拠しています。(ウィキペディア+報道記事)

遺言を書かなかった経緯は、マネーポストWEB(女性セブン)2020年6月30日配信記事における次男・森繁建氏の証言に基づきます。

遺品の詳細(ヨット売却額、無人島の所在等)は、同じくマネーポストWEB掲載の森繁建氏インタビュー記事に基づきます。

寄贈先の詳細、相続税額などは、一次資料で確認できていません。

税務に関する説明は一般論であり、森繁久彌氏の相続に実際に適用されたかは公表情報からは不明です。

参考法令・資料

  • 相続税法(昭和25年法律第73号)第12条
  • 民法(明治29年法律第89号)第964条以下
  • 財産評価基本通達135(動産の評価)
  • 租税特別措置法第40条(公益法人等に財産を寄附した場合の譲渡所得等の非課税)
  • 所得税法第59条(贈与等の場合の譲渡所得等の特例=みなし譲渡)
  • 国税庁タックスアンサー No.4108「相続財産を公益法人などに寄附したとき」

報道出典

  • マネーポストWEB「昭和の大スター・森繁久彌さんが遺言書を残さなかった真意」(女性セブン、2020年6月30日配信) https://www.moneypost.jp/677539
  • マネーポストWEB「森繁久彌さん仰天の遺品と相続の苦労 ヨット、無人島、ゴルフ場…」 https://www.moneypost.jp/571165
  • マネーポストWEB「森繁久彌さんの次男が明かす『異例ずくめの葬儀』に踏み切った事情」 https://www.moneypost.jp/1079810
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