向田邦子 ―― 51歳、猫を遺して逝った人

有名人の遺言書シリーズ — 遺す人、遺さない人、税理士が読み解く10の物語

遺言書は「いつか」ではなく「いま」考えるもの。
“その時”が来てからでは、もう本人の意志を確かめることはできません。

けれど、いざ書こうとすると、制度や形式の壁が高く感じられるものです。
そんなときは、有名人たちの遺言をのぞいてみましょう。
そこには、家族への想い、人生のけじめ、そして制度を通して想いを託す知恵が見えてきます。

向田邦子という名前を聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。

『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』の脚本家。
『父の詫び状』のエッセイスト。
直木賞作家。

でも、彼女に憧れる人たちが思い浮かべるのは、作品だけではありません。

独身で、仕事を持ち、青山のマンションで猫と暮らす。
骨董を愛し、旅を楽しみ、おいしいものを知っている。

「こういうふうに生きたい」と思わせる、ライフスタイルそのもの。

その暮らしの中心に、いつも猫がいました。

🗂 プロフィールメモ:向田邦子(むこうだ・くにこ)

1929年東京生まれ。脚本家・エッセイスト・小説家。

『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』『あ・うん』など、テレビドラマ脚本70作以上を手がけ、「ホームドラマの名手」と呼ばれた。1980年、『思い出トランプ』で直木賞受賞。

生涯独身。青山のマンションで猫たちと暮らした。

1981年8月、台湾での飛行機事故により死去。享年51。
公表されている範囲では、遺言書の存在は確認されていない。

本稿は、公開された報道内容を素材として、「仮に報じられている状況が成り立つとしたら、法律上どのような仕組みが動くのか」を解説するものです。個別事情やご家族の意図を推測・断定する目的ではありません。

目次

向田邦子と猫たち

向田邦子は、青山のマンションで3匹の猫と暮らしていました。
中でもマミオ(オス・コラット種)は、タイ旅行中に「感電するような衝撃」を受けて迎えた、銀色の猫でした。

向田邦子はエッセイにこう書いています。
「貴男はまことに男の中の男であります。私はそこに惚れているのです。」

寸胴鍋でトビウオ10kgを煮て、薄味で小分け冷凍する。
猫のために、そこまでする人でした。

51歳、絶頂期、突然の終わり

1981年8月22日。
向田邦子は、台湾への取材旅行中に飛行機事故で亡くなりました。

51歳。
直木賞受賞の翌年。
週13本の締め切りを抱える、絶頂期でした。

6年前には乳がんの手術を受け、輸血による血清肝炎で「悪くすれば余命半年」と宣告されたこともありました。
でも、乗り越えました。仕事に復帰し、直木賞を取り、「もう大丈夫」と思っていたかもしれません。

誰も予測できませんでした。本人も。
公表されている範囲では、向田邦子が遺言書を残したという記録は確認されていません。

マミオのその後

向田邦子の死後、マミオは母・せい(当時73歳)と妹・和子が引き取りました。
しかし、マミオは3ヶ月間部屋から出なかったと伝えられています。
49日を過ぎてからは荒れ、主人を探して家中を鳴き歩き、和子に咬みつき、懐こうとしませんでした。

和子は意を決して、マミオと対峙しました。
「私があなたの主人だ」

傷だらけになりながら、一歩も引きませんでした。

やがてマミオは和子に懐き、1985年7月、16歳で亡くなったとされています。
向田邦子の没後、4年でした。

家族がいたから、うまくいった

マミオを誰が引き取るのか。
向田邦子は、それを決めていませんでした。
遺言書もなければ、誰かに頼んでいた形跡もありません。

それでも、うまくいきました。
母がいました。
妹がいました。
和子が、傷だらけになりながら引き受けました。

マミオの飼育費用も、おそらく問題にならなかったでしょう。
向田邦子の遺産には著作権があり、印税収入がありました。
母と妹には、猫を養う経済的余裕がありました。

でも、それは「たまたま」でした。

ペットを託すなら「お金」も一緒に

ペットを誰かに託すとき、「世話をお願いします」だけでは足りません。
世話には、お金がかかります。
引き取る側にとって、少なくない負担になります。

向田邦子のケースでは、家族に経済的余裕がありました。
でも、引き受ける側に余裕がなかったらどうなるでしょうか。

「世話してほしい」という気持ちだけでは、現実は動きません。

ペットの世話をお願いするなら、飼育費用も渡せるんですか?

はい。「負担付遺贈」という方法があります。
財産を渡す代わりに、ペットの世話をしてもらう形です。飼育費用に充てる現金も一緒に遺贈するのが現実的ですね。

猫の平均寿命は15〜20年。
毎月の食費、医療費、ペット保険、トイレ用品……年間で10万〜20万円、生涯では100万円を超えることも珍しくありません。
高齢になれば医療費が増え、200万円を超えることもあります。

この金額を、引き取る人に負担させていいのでしょうか。 「お願い」だけでなく、「お金」も一緒に渡す設計が必要になります。

「生前に渡す」か「遺言で渡す」か

ペットの飼育費用を渡す方法には、大きく2つあります。

生前贈与:生きているうちに、引き受けてくれる人に現金を渡す

負担付遺贈:遺言で、ペットと一緒に飼育費用を渡す

生前に渡しておけば、確実じゃないですか?

確かに、生前に渡せば相手は確実に受け取れます。
でも、税金の面では不利になることも多いんですよ。

生前贈与の税負担

生前贈与には、年間110万円の基礎控除があります。それを超える部分には、贈与税がかかります。

たとえば、飼育費用として200万円を生前に渡すと:

– 200万円 – 110万円 = 90万円が課税対象

– 贈与税が約9万円発生(税率10%の場合)

遺言で渡す場合(負担付遺贈)

一方、遺言で財産を渡す場合、相続税の基礎控除が適用されます。

基礎控除額 = 3,000万円 + 600万円 × 法定相続人の数

たとえば、法定相続人が2人なら、4,200万円まで相続税はかかりません。

課税価格の合計(債務控除等を反映した金額)が基礎控除以下なら:

– 飼育費用200万円を含めても、相続税はゼロ

– 申告義務もなし

税負担の比較(飼育費用200万円を渡す場合)

方法説明税金の目安
生前贈与年間110万円の基礎控除を超える90万円に贈与税が課税約9万円
負担付遺贈(課税価格の合計が基礎控除以下の場合)相続税の基礎控除内に収まる場合0円

実務上のポイント

課税価格の合計が基礎控除以下であれば、負担付遺贈で渡しても相続税はかかりません。
生前贈与なら約9万円の贈与税が発生するケースでも、遺言で渡せばゼロになります。
この場合、税負担の面では、遺言の方が有利です。

一方、課税価格の合計が基礎控除を超える場合は、相続税が発生します。
受遺者が配偶者や一親等の血族以外であれば、2割加算の対象にもなります。
この場合、生前贈与と比べて有利かどうかは遺産全体の規模や構成によって変わるため、個別の試算が必要です。

いずれの方法を選ぶにしても、大切なのは生前に引き受けてくれる人と話し合い、承諾を得ておくことです。

遺言で渡す方がいいんですか?

一概には言えません。
遺言には「相手が放棄できる」「履行の保証がない」という限界もあります。
だからこそ、生前に贈与するにせよ遺言で渡すにせよ、生前に引き受けてくれる人と話し合い、承諾を得ておくことが大切なんです。

負担付遺贈の書き方と実務上の注意点

負担付遺贈の書き方(例)

遺言書で「ペットの世話」と「飼育費用」をセットで託す場合、次のような書き方が考えられます。

第○条 遺言者は、遺言者の飼育する猫(名称:○○、マイクロチップ識別番号:○○○○○○○○○○○○○○○)を、下記の者に遺贈する。

住所:○○県○○市○○町○丁目○番○号

氏名:○○ ○○

第○条 前条の遺贈は、受遺者が上記の猫を引き取り、その死亡まで適切に飼育することを負担とする。

第○条 遺言者は、上記の猫の飼育費用に充てるため、金○○万円を前条の受遺者に遺贈する。

実務上の重要な注意点:

負担付遺贈を有効にするためには、遺言書の作成前に、引き受けてくれる人の承諾を得ておくことが重要です。
遺言書に書いても、相手が「引き受けられない」と言えば、遺贈を放棄される可能性があります。

また、公正証書遺言で作成し、遺言執行者を指定しておくことで、ペットの引き渡しが確実に実行されやすくなります。

2022年6月から、ペットショップやブリーダーなどの販売業者には犬猫へのマイクロチップ装着が義務化され、飼い主には登録義務が課されています。
遺言書にマイクロチップの識別番号を記載しておくことで、個体の特定が確実になります。

予備的遺言のすすめ

せっかく指名した引き受け手が、自分より先に亡くなってしまうリスクもあります。
そのため、「AさんがダメならBさんに」という二段構えの書き方(予備的遺言)を検討することも有効です。

第○条 前条の受遺者が遺言者の死亡以前に死亡したとき、または遺贈を放棄したときは、下記の者に遺贈する。

住所:○○県○○市○○町○丁目○番○号

氏名:○○ ○○

引き受け手が複数いる場合、優先順位を明確にしておくことで、ペットが宙に浮くリスクを減らせます。

負担付遺贈の限界

負担付遺贈は、ペットを託す有効な手段です。
でも、万能ではありません。

限界①:相手が放棄したら効力がない

遺贈は、受け取る側が「放棄」できます(民法986条)。
遺言書に「この人に託す」と書いても、相手が「無理です」と言えば、それまでです。

だからこそ、生前に「引き受けてもらえますか」と確認しておくことが大切になります。

限界②:履行の保証がない

引き受けたものの、ちゃんと世話をしてくれなかったらどうなるでしょうか。

民法では、相続人が家庭裁判所に取消しを請求できる仕組みがあります(民法1027条)。

しかし現実には、「世話をしているかどうか」を誰がチェックするのか、相続人がいない場合は誰も動けない、といった問題があります。

負担付遺贈は、結局のところ「信頼」に依存しています。

負担付遺贈で託しても、ちゃんと世話してもらえるか心配…

正直に言えば、遺言だけでペットの幸せを完全に保証することはできません。
大切なのは、生前に信頼関係を築いておくこと。遺言は、その信頼を法的に裏づける道具です。

負担付遺贈の限界を補うために、死後事務委任契約やペット信託といった方法もあります。

誰もが家族に恵まれるとは限らない

向田邦子に憧れる人は多くいます。
独身で、仕事を持ち、自分のライフスタイルを大切にする。
センスの良い暮らしの中に、猫がいる。

でも、その暮らしを自分で選んだ人ほど、考えておくべきことがあります。

「自分に何かあったとき、この子はどうなるのか」

向田邦子には、母がいました。妹がいました。
引き取ってくれる家族がいて、経済的余裕もありました。
皆がそうであるとは限りません。

– 親が高齢、または他界している

– きょうだいがいない、または疎遠

– 頼れる人がいない

– 引き取ってもらうにも、費用の負担をかけたくない

そういう人には、制度で備える方法があります。

遺言書に「この子を託す」と書くこと。
飼育費用も一緒に渡す設計をすること。
引き受けてくれる人と、生前に話し合っておくこと。

それは、愛情を制度に翻訳する作業です。

まとめ

向田邦子は、自分の人生を自分でデザインした人でした。
骨董、猫、旅、仕事。
「この人らしいな」と誰もが思う暮らし方。

でも、51歳で突然、その人生は断ち切られました。

マミオを誰に託すか。
飼育費用をどうするか。

その答えを、向田邦子は残しませんでした。

家族が、「向田邦子だったらどうするか」を考え続けて、引き受けました。
和子が傷だらけになりながら、マミオと向き合いました。
それは愛情の物語であり、同時に、幸運の物語でもあります。
誰もが向田和子のような家族に恵まれるとは限りません。

若くても、元気でも、人生は突然終わることがあります。
向田邦子は、51歳でした。

猫と暮らす人へ。

自分に何かあったとき、この子はどうなるのか。
その世話を誰がするのか。費用は足りるのか。

考えておくことは、愛情の一つの形です。

向田邦子のように、猫や大切なペットと暮らしている方へ。

遺言書は、財産を分けるためだけのものではありません。
「この子を誰に託すか」「飼育費用をどう渡すか」を、法的に残すための手段でもあります。

飼育費用を渡す方法には、生前贈与と負担付遺贈という選択肢があります。
税制上は、課税価格の合計が基礎控除以下であれば、遺言で渡す方が有利になります。
たとえ相続税の課税対象にならない場合でも、遺言書で「誰に託すか」を明確にしておくことには大きな意味があります。

弊所では、公正証書遺言の作成支援をはじめ、負担付遺贈を含めた相続設計のご相談を承っています。

死後事務委任契約については、提携する専門家と連携しながら、いざという時にも安心できる体制を整えています。

どうぞご相談ください。

落ち着いた対話の中で、あなたらしい意思を形にしていくお手伝いをいたします。

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🔎 注意:出典について

本記事は、公開資料・報道・研究文献など一次確認が可能な範囲に基づき作成しています。

– 家族関係・経歴については、Wikipediaほか百科事典的資料を参照

– 猫・マミオのその後については、『向田邦子ふたたび』(文藝春秋)所収「マハシャイ・マミオの死」を参照

– マミオのその後については、『向田邦子ふたたび』(文藝春秋)所収「マハシャイ・マミオの死」をはじめとする家族の証言に基づきますが、細部の日付や年齢については資料によって表現に差がある可能性があります

– 乳がん・血清肝炎については、妹・向田和子氏の証言(NHK番組、新潮社『波』インタビュー)を参照

– 遺言書の有無については、公表されている範囲では、作成の記録は確認されていません

– 飼育費用の試算は一般的な目安であり、個別の状況により異なります

– 税負担の試算は一般的なケースを想定したものであり、個別の状況により異なります

参考法令・資料

– 民法(明治29年法律第89号)

  – 第986条(遺贈の放棄)

  – 第1027条(負担付遺贈に係る遺言の取消し)

– 相続税法(昭和25年法律第73号)

  – 第18条(相続税額の2割加算)

– 財産評価基本通達148(著作権の評価)

– 動物の愛護及び管理に関する法律(昭和48年法律第105号)

  – 犬猫のマイクロチップ装着義務化(2022年6月施行)

– 国税庁タックスアンサー

  – No.4102「相続税がかかる場合」

  – No.4157「相続税額の2割加算」

  – No.4205「相続税の申告と納税」

  – No.4408「贈与税の計算と税率(暦年課税)」

– 環境省「犬と猫のマイクロチップ情報登録について」

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