机の向こう側

私の事務所は小さく、執務室と面談室を分けていません。

大きな机をL字形に並べて、一方ではパソコンに向かい、もう一方ではお客様と向かい合います。

相続の仕事では、通帳や戸籍謄本、契約書など、たくさんの書類を広げます。面談に使っているのは、普通の机よりずっと大きなものです。IKEAで買った、大きな天板に脚をつけただけの、飾り気のない机です。

私はいつも同じ側に座っています。

机を挟んだ向こう側には、白い椅子があります。そこに、いろいろな方が座ります。

ある女性のお客様は、付き添いの方と一緒に事務所まで来られました。

私の事務所は、エレベーターのない古いマンションの三階にあります。

その方は階段を一気に上ることができず、踊り場で何度か足を止め、息を整えながら、少しずつ上ってこられました。

私はそのとき初めて、ここまで来ること自体が大変な状態だったのだと知りました。

また、ある暑い夏の日。

一人の男性のお客様が、事務所に来る途中でコンビニに寄り、アイスとヨーグルトを買ってきてくださいました。

書類の提出やご相談のために来られたのですが、席につくと、

「まず食べましょう」

とおっしゃいました。

「どれがいいですか」

そんなことを話しながら、二人でアイスとヨーグルトを食べました。

相続の仕事では、一度は相続人として机の向こう側に座っていた方と、もう一度、別の形でお会いすることがあります。

今度は、その方自身が亡くなられたあとの相続です。

ご家族から相続税申告のご依頼を受け、資料を広げ、その方を被相続人として申告書を作っていく。

資料を確認し、数字を拾い、税額を計算していると、ときどき、その方の姿がふっと浮かびます。

階段の踊り場で、息を整えていたこと。

暑い日に、「まず食べましょう」と言って、一緒にアイスを食べたこと。

思い出そうとしているわけではありません。

数字を追っているうちに、声や話し方、そのときの空気まで戻ってくることがあります。

以前、私は在宅で翻訳の仕事をしていました。

文書が届き、それを訳して、返す。原文を書いた人にも、訳文を読む人にも会いません。

文書の向こうにいる人の顔を知らないまま、仕事は完結していました。

今の仕事は、そうではありません。

相続の仕事を通して、その方の財産のことだけではなく、ご家族のことや、これまでどんなふうに暮らしてこられたのか、その一端を知ることがあります。

声を知っています。

話し方を知っています。

どんなふうに、机の向こう側に座っていたかを知っています。

後になって浮かんでくるのは、申告書には残らないことのほうです。

階段の踊り場。

夏の日のアイスとヨーグルト。

申告書を作っていると、かつて机の向こう側に座っていた人が、ふっと戻ってくることがあります。

書類の中からではありません。

目の前の白い椅子に座って、私と話していた、その姿のままで。

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