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口座凍結スイッチ

夫が亡くなった。
妻は市役所へ行き、死亡届を出した。
窓口の職員は書類を受け取ると、内容を確認した。
「はい。確かに受理しました」
妻が去ったあと、職員は机の下に手を伸ばした。
そこには、小さな赤いスイッチがある。
カチッ。
信号は、市役所から見えない回線を通って、いくつもの銀行へ送られる。
ある銀行の端末に、赤い文字が表示された。
《死亡情報を受信しました》
翌朝。
妻はいつものように、夫のキャッシュカードをATMに入れた。
《このカードはお取り扱いできません》
昨日まで使えていたお金が、突然使えなくなった。
電気代はどうしよう。
クレジットカードの引き落としは。
葬儀のお金も払わなくてはいけない。
夫は預金を残してくれた。
口座にお金は、ある。
あるのに、使えない。
――。
さて。
そんな「口座凍結スイッチ」は、本当に存在するのでしょうか。
ありません。
少なくとも現在、死亡届を役所に提出すると、その情報が自動的に銀行へ送られ、故人名義の口座が一斉に凍結される、という仕組みにはなっていません。
銀行は、名義人が亡くなったことを知れば、口座の取引を止めます。
けれども銀行は、毎日、口座名義人が今日も生きているかどうかを調べているわけではありません。
家族などから知らされて、初めて知ることが多いのです。
だから、こんなことが起こります。
夫を亡くした妻が、夜中にスマートフォンで検索をしています。
「死亡 銀行口座」
「死亡届 口座凍結」
検索しているうちに、妻は気になり始めました。
死亡届を出したら、銀行にも伝わるんじゃないの?
役所と銀行は、どこかでつながっているんじゃないの?
今日、死亡届を出したばかりです。
もう銀行に伝わったのだろうか。
ネットバンキングを開いてみます。
まだ動いています。
翌朝も確認します。
まだ大丈夫。
でも、いつまで?
明日?
一週間後?
お金はある。
それなのに、ある日突然、使えなくなるかもしれない。
不安になった妻は、銀行に電話をかけます。
「あの、夫が亡くなったんですが、口座は……」
銀行員が答えます。
「ご愁傷さまでございます。お亡くなりになったことを確認しましたので、お口座は凍結されます」
カチッ。
おや。
なかったはずのスイッチが、本当に押されてしまいました。
とはいえ、口座が凍結されて当面のお金に困る人は、本当にいます。
現在は、遺産分割が終わる前でも、一定の範囲で相続人が故人の預金を払い戻してもらえる制度があります。
この制度ができたのは、2019年です。
ただし、この制度を使うにも手続きが必要です。
そもそも、そんな制度があることを知らない人もいます。
そして、この制度を使おうと思えば、まず銀行に名義人が亡くなったことを知らせることになります。
困っている人がいる。
制度ができる。
それでも、人間の暮らしは、そんなにきれいにはいかないこともあります。
以前、こんな相談を受けたことがあります。
お母さんが亡くなって、もう何年か経っている。
ところが、遺産分割の話が出ない。
お母さんの近くに住んでいた長女が、通帳を預かっていたらしい。
今も、あの口座からお金を下ろしているのではないか。
相談者は心配していました。
私は言いました。
「まず、銀行から取引明細を取ってみたらどうでしょう」
お母さんが亡くなったことを銀行に伝え、相続人として取引明細を請求する。
そうすれば、亡くなった後に口座からどんなお金が動いたのかを確認できます。
そして、その時点で口座は凍結されます。
同じ口座凍結なのに、今度は立場が逆です。
先ほどの妻は、
「お願い。スイッチを押さないで」
と願っていました。
こちらの相続人は、
「早くスイッチを押したほうがいいかもしれない」
と考えています。
もっとも、すでに全部引き出されていたら、今さら口座を凍結しても、過去のお金が戻ってくるわけではありません。
口座は、凍っても困る。
凍らなくても困る。
凍らなかった口座から、一人の相続人がお金を引き出し続ければ、あとで別の問題が始まります。
「この10万円は何?」
「この30万円は?」
「亡くなった後に200万円減っているけれど?」
もちろん、死亡後にお金が引き出されていたからといって、直ちに誰かが不正に取得したとは限りません。
葬儀費用だったかもしれない。
故人のための支払いだったかもしれない。
だから、取引明細を眺めながら、一つずつ確認することになります。
銀行口座は凍らなかった。
代わりに、家族関係が凍ることもあります。
ところで。
最近は、銀行口座とマイナンバーを結びつける仕組みもあります。
相続のときに、亡くなった人がどこの金融機関に口座を持っていたのかを探しやすくする制度も始まっています。
便利です。
役所も銀行も、何度も同じ書類を出さなくても、必要な情報がすっとつながればいいのに。
私たちはそう思います。
一方で、情報がつながり始めると、こんなことも考えます。
――そのうち、本当に死亡届が口座凍結スイッチになるんじゃないの?
ご安心ください。
現在のところ、そんなスイッチはありません。
現在のところは。
カチッ。
