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浅香光代 ── サッチーと戦い、戦友と生きた人

あっぱれ、女の相続シリーズ — 昭和・平成を騒がせた、10人のあっぱれな女たち
相続というと、お金や手続きの話に聞こえるかもしれません。
でも、本気で生きた人の人生を眺めていると、相続の問題がふっと姿を現します。
騒がせ、笑わせ、ときに怖がらせた女たちの人生を、少し遠くからのぞいてみましょう。
1928年、東京・神田生まれ。本名・北岡昭子。
9歳で芝居の世界に入り、戦後の浅草で女剣劇の人気スターになりました。
1999年には野村沙知代さんとの「ミッチー・サッチー騒動」で日本中の注目を集め、コメディアンの世志凡太さんとは籍を入れないまま30年近くを共に暮らしました。
2020年12月13日、92歳で亡くなりました。
男っぽいおばあさんの来歴
私の記憶の中の浅香光代さんは、ミッチー・サッチー騒動でテレビに出ていた人です。江戸っ子らしい口調でまくし立てる、ちょっと男っぽいおばあさん。正直に言えば、それ以上のことは知りませんでした。
あの男っぽさには、来歴があります。浅香さんは9歳で芝居の世界に入り、男の役を演じ、男たちを束ねる座長として生きてきた人でした。次男は後に、「豪快で決断力があって、母というより父のようでしたね」と語っています。
そして若いころは、立ち回りのたびに着物の裾からのぞく脚で、浅草の客を集めていました。
14歳の座長
東京・神田生まれ。本名は北岡昭子。生年は1928年とも1931年ともされ、本人は三つ若く名乗っていたとも言われます。
9歳で一座に入り、内弟子になりました。後年、「9歳で内弟子になって、ご飯も満足に食べられなかった。ネズミの次だなんて言われて」と振り返り、その苦労への反逆がいまの自分を支えている、と語っています。
座長が急死して一座が解散すると、周囲に担ぎ上げられる形で、14歳で自分の一座を旗揚げしたと伝えられます。
女剣劇は、女優が男の姿で刀を振るう芝居です。戦後の浅草で人気を集め、浅香さんはその看板の一人になりました。立ち回りの最中に着物から脚がちらりとのぞくのが評判になり、「チラリズム」という言葉が生まれたとも言われます。
人づきあいは、江戸っ子らしく義理堅い人でした。取材した記者のもとには、数日後に必ず毛筆の巻物の礼状が届きました。各方面に、月に500本ほど書いていたといいます。
ミッチーとサッチー
仲よしだったころ
1997年、浅香さんはあるパーティーで野村沙知代さんと出会います。引き合わせたのは、それぞれの夫でした。世志凡太さんと野村克也さんは若いころからの友人で、「仲よくしてほしい」と二人を紹介したのだそうです。
二人はすぐに意気投合し、沙知代さんは浅香さんの家に頻繁に来るようになりました。ただ、浅香さんの側から語られる沙知代さんは、なかなかの客人です。高い寿司をねだる。着物を、断りなく持って帰る。知人の美容外科でシミを取ってもらい、代金を催促されると「私は野村沙知代よ。宣伝費をもらいたいくらい」と言い放った――と浅香さんは語っています。
1998年、浅香さんの芝居を見た沙知代さんが「私も踊りたい」と言い出し、二人の舞台が実現します。稽古には大幅に遅刻し、本番では踊れずに客席へ手を振る。合図を送ると、本番中に「指示出すな」と言い返された、というのが浅香さんの回想です。
もっとも、沙知代さんの側には別の言い分があります。共演継続の申し出を断った直後に、批判が始まったのだと。どちらの話も、片方からしか聞けない種類のものです。
ラジオ最終回から
1999年3月31日。浅香さんはこの日で、TBSラジオの長寿番組を降板することになっていました。パーソナリティの大沢悠里さんに「最後だから言いたいことを言っちゃいなよ。嫌なやつがいたら、そいつの名前でもいいよ」と促され、浅香さんは野村沙知代さんの名前を挙げました。
当時の沙知代さんには、衆院選での繰り上げ当選の可能性が取り沙汰されていました。浅香さんは、あんな人が議員になるのかとまくし立て、その写真を破ってみせます。
本人は、言いたいことを少し言ったつもりでした。ところが帰宅すると、玄関には入りきらないほどの靴が並んでいます。全部、報道陣のものでした。逃げるように湯河原の旅館へ向かうと、記者が先に中で待っていました。「みんなあたしを犯罪者みたいに扱ってたわ」と、浅香さんは振り返っています。
ここから2年半あまり、ワイドショーは連日この話題でもちきりになります。有名人が次々と参戦し、番組のスポンサーが降り、首相までが感想を聞かれました。浅香さんは沙知代さんを学歴詐称だとして公職選挙法違反で告発し(結果は不起訴)、署名運動まで起きます。「ミッチー・サッチー」は、その年の流行語大賞のトップテンに入りました。
渦中の浅香さんのもとに、森繁久彌さんから電話があったそうです。「あれはやめちゃいけない。面白くてしょうがない。毎朝あの騒動で目が覚める」。世志さんが後に明かした話です。
当事者にとっては災難でも、日本中にとっては朝の娯楽でした。そのことを、森繁さんほどあっけらかんと言い当てた人はいません。
終わり方
騒動は、思わぬ形で幕を引きます。2001年12月、沙知代さんが脱税の疑いで逮捕されたのです。浅香さんは会見で「正義は勝つ」と言いました。
ところが翌2002年、沙知代さんは週刊誌や芸能人を相手に、名誉毀損で計31件、総額5億円の訴えを起こします。浅香さんもその一人でした。報じられた浅香さんの第一声は、「えっ、私に? デヴィさんの間違いじゃないの!?」。
2004年、裁判所は浅香さんに110万円の支払いを命じました。今度は沙知代さんが一本取ったのです。相手の過去の私生活をあげつらう匿名の手紙を、週刊誌の記者に見せたことが名誉毀損とされました。ただし、学歴詐称をめぐるテレビでの発言や告発については、違法性は認められませんでした。勝負は、そう単純ではなかったのです。
学歴詐称を告発した当人も、年齢を三つ若く名乗っていたと言われます。いい勝負です。このあたりの抜けた感じも、ミッチーらしいところです。
2017年12月、沙知代さんが亡くなります。浅香さんは浅草の自宅で取材に応じ、「あの度胸はなかなかない。万分の一でも、もらいたい」と語りました。
2020年1月、浅香さんは世志さんと並んで、あらためて騒動を振り返るインタビューを受けています。世志さんは静かにこう言いました。「サッチーがしていたことって全部“野村監督”のためなんだよ」。浅香さんは最後に、「この世では2度とああいう女には会えないだろうね。あと何年かしたら、“座布団敷いて待ってたわよ”って迎えてくれるかもね」と笑いました。
その年の暮れ、浅香さんもまた、あちらへ行くことになります。
「1クール」の戦友
世志凡太。フランス語の「セ・シ・ボン(とってもいい)」から取った芸名だそうです。1934年生まれ、本名は市橋健司。ジャズバンドのベーシストから出発し、コメディアン、演出家、音楽プロデューサーへ。フィンガー5を世に送り出したのはこの人です。のちに浅草喜劇人協会の会長も務めました。
浅香さんと暮らし始めたのは1992年ごろ。きっかけは芸能レポーターたちでした。二人の仲を書き立てられ、浅香さんいわく「そんなに言われるなら一緒になっちゃえば」「とりあえず1クール結婚してみて、3か月で嫌になったら別れればいい」。さらに「本当はこの人のことは嫌いだったの。私は面食いだからね(笑)」とまで言っています。
その「1クール」が、30年近く続きました。
二人は籍を入れませんでした。浅香さんは「いい年のオッサン、オバサンだから、今さら籍を入れる必要なんかないよ」。世志さんは、当時の自分はリスクの大きい仕事をしていたので、何かあったときに彼女の進退に響かないよう籍を入れなかった、と説明しています。借金があったため、と報じられたこともあります。いずれにしても、相手を巻き込まないための選択でした。
浅香さんは二人の関係を「夫婦というより戦友みたいなもの」と言いました。騒動のさなかも、会見の席でも、世志さんは浅香さんの隣にいました。
浅香さんには、もう一つの家族がいました。20歳前後のころ、妻子ある大物政治家との間に、未婚のまま二人の息子を産んでいます。本人がそれを公にしたのは80代半ばになってからで、相手の名前は最後まで明かしませんでした。「死んでも名前を言わないから産ませてくれと頼んだ」といいます。息子たちは母と離れて育ち、母を「先生」と呼んでいました。
離れて育ち、母を「先生」と呼んできた息子たち。毎日を共にしてきた、籍のない戦友。浅香さんの晩年は、この二つの家族のあいだにありました。
遺言書のミステリー
浅香さんは、自分の死後のことを考えていた人です。
2015年、テレビ番組で身辺整理や遺言書の作成など、終活を済ませたことを明かしました。2017年のインタビューでは、中身まで語っています。
「財産の4分の1ずつを子ども2人に。残りを夫に渡すことを遺言書に書いたんだよ」
事務所と住まいの入った浅草のビルは「浅香光代事務所」の法人名義にし、二人とも名を連ねたそうです。「どちらかが先に死んでも、残された者が後を引き継げばいい」と世志さんは言いました。
籍のない夫には、相続権がありません。浅香さんはそれを知っていて、手を打っていたように見えます。
2020年10月、体調を崩して入院。膵臓がんでしたが、本人には病名を知らせなかったそうです。コロナ禍で、面会は1分と決められました。耳の遠くなった母とは、こちらが「元気?」と聞いて母がうなずく、そのくらいのやりとりしかできなかったと次男は語っています。親戚には「浅草に帰りたい」「コーラが飲みたい」と漏らしていたそうです。12月13日、92歳で亡くなりました。
葬儀の喪主は長男が務めました。弔辞に立った世志さんは、遺影に向かって「世志凡太だぞ! 分かるか? 忘れるなよ!」と、会場の外まで響く声で呼びかけたといいます。
年が明けた2021年2月、週刊誌が遺産をめぐる話を報じます。浅香さんの知人の話として、世志さんは自分が2分の1を受け取り、残りを息子2人で分けることを提案しましたが、息子側は3人で均等に分けるべきだと主張しました。結局は3分の1ずつで落ち着いた、といいます。次男は「概ね事実です。すでに解決ずみです」と答え、世志さんは「遺産は仲よく分配しました。揉めごとはありません」と答えています。
ここで、話が合わなくなります。
浅香さんが語った遺言は「夫に2分の1」。世志さんが提案したのも「2分の1」。ところが、報じられた結末は「3分の1ずつ」。そしてこの記事には、遺言書という言葉が一度も出てきません。
遺言書は、出てきたのでしょうか。出てきたとすれば、なぜ語られたとおりにならなかったのか。出てこなかったとすれば、籍のない世志さんの3分の1は、どこから来たのか。
見つからなかったのか、形式が整っていなかったのか、途中で書き直されたのか。あるいは遺言はあったうえで、皆で話し合って別の分け方にしたのか。
答えは、手元の資料からは出てきません。少なくとも、生前に本人が語った分け方と、死後に週刊誌が伝えた分け方は違っていました。
よもや忘れでは。
浅香さんの死後、世志さんは浅草を離れて茨城県取手市に移り、猫と暮らしながらデイサービスに通いました。周りの人たちからは「浅香光代さんの夫」と見られていたそうです。
2025年11月18日、世志凡太さんは91歳で亡くなりました。
世志さんは生前、自分の墓を建てていました。お参りに来た人が寂しくないように、墓石にイラストを入れること。それが唯一の遺言だったと報じられています。描かれたのは、棺桶から笑って出てくる世志さんの似顔絵と、「よもや忘れでは。」という一言。
葬儀で、浅香さんに向かって叫んだ「忘れるなよ!」。墓石から、世間に向けて置いた「よもや忘れでは。」。片方は切実で、片方はとぼけています。
二人の物語の最後に残ったのは、遺産の分け方ではなく、「忘れないでほしい」という願いでした。
忘れられようのない二人が、そろって「忘れるな」と言い残しています。
9歳で舞台に立ち、日本中を巻き込むケンカをし、籍を入れない男と30年を生きた女。そして、その隣で最後まで名乗り続けた男。

ここからは、税理士のワンポイント解説です。事実婚のパートナーに財産を残す方法について、少しだけお話ししますね。
事実婚のパートナーに財産を残すには
事実婚のパートナーは、何年一緒に暮らしても法定相続人にはならず、法定相続分もありません。
遺言がない場合、相続人が自分の受け取った分から分けてあげることはできます。ただ、それは相続人からの「贈与」で、贈与税の対象になります。
渡す方法は、いくつかあります。
遺言で遺贈する:浅香さんが選んだ方法です。子2人に4分の1ずつ残し、残りを夫に渡す。子どもたちの遺留分である各4分の1は確保しつつ、内縁の夫にも財産を残せる、よく考えられた分け方でした。遺言書は、法律上の方式を満たしていなければ無効になります。たとえば自筆証書遺言なら、全文・日付・氏名を自分で書き、押印する必要があります。また、せっかく作っても、死後に見つからなければ、その内容が実現されないおそれがあります。確実さを重視するなら、公正証書遺言や、法務局で自筆証書遺言を預かる制度もあります。
生命保険金の受取人に指定する:保険会社の条件によっては、事実婚のパートナーを受取人に指定できることがあります。
生前に贈与する/死因贈与契約を結ぶ:死因贈与は、「亡くなったら渡す」を二人の契約として決めておく方法です。渡す財産や条件をはっきり書面に残し、不動産なら登記や税金の扱いも含めて確認しておくと安心です。
会社にする場合の注意
役員に名を連ねても、それだけで会社の財産を引き継げるわけではありません。会社の行方を決めるのは、株を誰が持つかです。株が相続人に渡れば、会社の舵も相続人に移ります。
税金のこと(ひとこと)
事実婚のパートナーが遺贈などで財産を受け取る場合は、配偶者の税額軽減を使えず、原則として相続税額に2割が加算されます(吉行淳之介の回で詳しく書きました)。
浅香さんは、遺言と会社の二つで備えようとしました。それが届いたかどうかは分かりません。けれど、何もしなければ、世志さんには受け取る権利がありませんでした。
籍を入れていないパートナーがいる方は、もし明日自分がいなくなったら、その人がどこで暮らし、何で生活するのかを、一度書き出してみてください。それが、遺言や保険を整える最初の一歩になります。
参考資料
週刊女性PRIME(2017年)「浅香光代、89歳になった今も感じる怒り『あいつには2度と会いたくない』」
https://www.jprime.jp/articles/-/9379
週刊女性(2020年1月28日号)「浅香光代が振り返る、野村沙知代さんとの『あたしゃ、許さないわよ!』の全真相」
https://www.jprime.jp/articles/-/16977
週刊女性PRIME(2020年12月23日)「浅香光代さん、コロナ禍の入院先で『浅草に帰りたい…』内縁夫と息子が明かす最期」
https://www.jprime.jp/articles/-/19680
週刊女性(2021年2月16日号)「浅香光代さん『遺産5000万円』をめぐり、勃発していた内縁の夫と息子の“相続争い”」
https://www.jprime.jp/articles/-/19983
デイリースポーツ(2017年12月8日)「浅香光代、宿敵・野村沙知代さん死去に『アタシより長生きすると思ってたのに…』」
https://www.daily.co.jp/gossip/2017/12/08/0010801500.shtml
デイリースポーツ(2017年12月8日)「野村沙知代さん死去 デヴィ夫人、浅香光代を名誉毀損で訴え“勝訴”」(2004年6月29日の控訴審判決記事を再掲)
https://www.daily.co.jp/gossip/2017/12/08/0010801361.shtml
デイリースポーツ(2020年12月17日)「浅香光代さん葬儀 内縁の夫が『世志凡太だぞ!忘れるなよ!』と涙ながらに絶叫」
https://www.daily.co.jp/gossip/2020/12/17/0013944977.shtml
東京スポーツ(2020年12月14日)浅香光代さん訃報
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/215863
NEWSポストセブン(2025年11月23日)「《訃報》コメディアン・世志凡太さん逝去」
https://www.news-postseven.com/archives/20251123_2077937.html
Wikipedia「浅香光代」「世志凡太」「ミッチー・サッチー騒動」
浅香光代『浅香光代 斬って恋して五十年』日本図書センター、2000年
本稿は、公開された報道内容を素材として、「仮に報じられている状況が成り立つとしたら、法律上どのような仕組みが動くのか」を解説するものです。個別事情やご家族の意図を推測・断定する目的ではありません。あくまで『人はなぜその決断をしたのか』を税務と心理の両面から考察し、皆様の将来に活かしていただくためのケーススタディです。


